江戸っ子芸者一代記(中村喜寿)

草思社文庫から「江戸っ子芸者一代記」(中村喜寿)が刊行された。本書は昭和初期の新橋芸者だった喜春姐さんの有名な回顧録で、ドイツ語版、スペイン語版、チェコ語版など、世界各国語に翻訳されている。

喜春姐さんは大正2年東京・銀座の医者の家に生まれた。生来の芸事好きが高じて、16歳で新橋の芸者となり、お座敷をつとめながら専門学校で英語を習得。東京で唯一英語のできる芸者として売り出し、チャップリンやベーブ・ルースなど海外の著名人の接待や、戦後の進駐軍との通訳で活躍した。昭和31年アメリカに渡ってからは、小唄や長唄など日本の古典芸能を教える傍ら、コロンビア大学等で東洋哲学の講義もしたが、8年前に亡くなっている。

昭和初期、新橋華やかなりし頃の芸者たちの生活がいきいきと描かれていて面白いのだが、とくに、芸者は名のある男性に水揚げしてもらって箔をつけるという当時にあって、それを拒否して逆に百戦錬磨の紳士をやり込めるところなど、なかなかリアルで興味深い。

『あたしが一生恨んだら、あなたもいやでしょう。あたしは他の芸者衆と違った考え方をしています。大臣に水揚げをしていただいて光栄だなんて思うもんですか。一生恨みます。そして、一生その恨みを忘れないと思います』しゃくり上げながら言うあたしに大臣は『そんなに、いやか?』とおっしゃるから『あたし本当にいやなんです。こんなことであたしの一生に忘れなれないいやな記憶の相手に、あなたがなるなんて、あなたもいやでしょう。女の子が一生恨んでいるなんて考えたら、あなたもいやでしょう?』あたしは一生懸命でした。その方はじっとあたしの顔を見つめて聞いていてくださいましたが、ぬぎかけたどてらをまた着なおして『ヤァ、まいった、まいった。本当だね。こんなことで君に一生恨まれるなんておれも本意でないよ。不肖三土忠造、女の子の水揚げの土壇場で説教されたのは生まれて初めてだ。あやまる、あやまる。許しておくれ』