忘られぬ言葉(ハイゼ)

忘られぬ言葉 (岩波文庫 赤 465-1)
パウル・ハイゼ
岩波書店
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ドイツ文学には昔から教養小説というカテゴリーがあるといわれています。我が国では最近,大学の教養課程なるものも縮小の一途で,若い世代にとって”教養”は死語同然となっており,教養書と呼ばれるのはもっぱらビジネスマン向けHow toものなど,”お勉強”関係の本ばかりで面白くありませんね。その点,ドイツの教養小説では,教養を身に付けるのは読者ではなく,もっぱら主人公ですから,勉強を強いられることなく,安心して読むことができます….^^。

岩波文庫には,初期のゲーテやヘッセ,ケラー,シュトルム,ヘルダーリンなど,教養小説に属するものが,かつてはたくさん収められていました。なかでもイタリアを愛したハイゼの諸作は,エキゾチック舞台設定や登場人物が好まれて,古くから我が国でも愛読されてきました。

ハイゼの短篇”忘られぬ言葉”は,イタリアとドイツの森を舞台にした男爵令嬢と若きドイツ人家庭教師との恋物語。旅先のイタリアで出会った二人は,互いに惹かれるものを感じ,令嬢のお屋敷で弟の家庭教師として一緒に暮らすことになります。初めは広大な屋敷や貴族的な生活に,やや気後れ気味だった彼でしたが,屋敷の人々から愛され,二人の愛情が深まるとともに,彼の文学への情熱も高まってきます。もともと,身分の違いなど意に介さぬ二人でしたが,そんな楽しい日々の中で,あるとき彼が,令嬢とその友人の女性との会話を,ふと立ち聞きしてしまったことから大きな衝撃を受け,ひとり屋敷を去り,旅立つことに。

数年後,令嬢宛に,イタリアに旅した友人からの手紙が届き,彼がイタリアに客死し,その墓銘碑に”余は忘るる能はず”と書かれていたことを伝えます。令嬢はその後,結婚もせず老いた母を看取ってすぐ,自分も亡くなりますが,その墓に”余は忘るる能はず”の言葉を刻むようにとの遺言が残されていました。

さて,二人の間には何があり,”忘られぬ言葉”というのは何のことなのでしょうか。それは本書を読んでのお楽しみ….。まあ,同じ男として,愛する女性を許せなかった彼を,度量のない男とは責められない気持ちです^^;;。

ハイゼは,著名な言語学者であった父と,裕福な母の間に生まれ,幼い頃より恵まれた生活を送りました。それは穏やかな作風にも現れているようです。19世紀末には,自然主義者たちにより激しい攻撃を受けましたが,今世紀に入ってからは再評価され,1910年,ドイツで初めてノーベル文学賞を受賞しました。

本書は昭和5年に岩波文庫に収められました。ドストエフスキーやスタンダールのような強烈なストーリー展開があるわけでも,さりとてリアリズムでもない地味な教養小説が,近年,次第に読まれなくなっていくのは仕方がないことかもしれませんが,本書もその後は再版されず,2年ほど前に一度復刊されたきりです。岩波文庫には,やはりイタリアを舞台にした「片意地娘」(短篇集)があり,ハイゼの代表作であるこちらもお薦めです。