角川文庫

涼宮ハルヒの憂鬱
昭和20年に創立された角川書店が文庫を創刊したのは1949年(昭和24年)5月。もっとも最初はB6判という「リーダース・ダイジェスト」と同じヘンな判型で,これをやめて現在のA6の文庫判型で刊行しはじめたのは1950年5月から。

創業者の角川源義は元中学校教諭で,柳田國男,折口信夫の薫陶を受けた国文学者兼俳人。そういう人の出した文庫だから,初めのころは,日本文学に関しては独特の強みがあった。柳田國男の多くの著作をはじめ,北原白秋の「明治大正誌史概観」とか石川淳の「文学大概」とか三島由紀夫の「純白の夜」とか,さらには中里介山の「大菩薩峠」全27冊とか,他の文庫ではあまり見かけないような異色作をせっせと刊行していたものである。ただし体裁は岩波と新潮の後追いで,特に面白味はなかった。

それがコペルニクス的転回を見せたのは,昭和40年代前半,角川春樹が編集局長に就任してから。エリック・シーガルの「ラブ・ストーリー」,「八つ墓村」ほかの横溝正史ミステリーで大ヒットをかっとばし,映画とタイアップして徹底的に売りまくった。さらに名著主義を廃して大胆に現代物をセレクトし,カラフルなイラストのカバーをつけて若い読者をさらい,文庫をアメリカのペーパーバック型のものに変えてしまった。こういう行き方は”角川商法”と呼ばれ,日本の出版界そのものを変えてしまった。

その後,コカイン密輸事件で,春樹社長のワンマン体制に対する批判が噴出。曽野綾子は,「徹底して売れない作品を切り捨てる角川書店の商法には,もはや文学を育てる土壌の存在が感じられなかった」とし,「もうこの出版社とは『縁がないな』と感じていた。(地味な文学を)育てるという努力をせず,いいとこだけつまみ食いをする社長にイエスマンをし続け,いざとなると,それは社長の横暴のせいでした,と言う社員と改めて付き合うのは嫌になったため,版権を引き揚げることにした」,と角川書店への縁切り宣言。

それに対し,当時の見城徹・角川書店編集部長は,「個人的な見解だが,飛んでいっておわびしたうえで,曽野さんの意思を尊重したい。通知は曽野さんらしい主張で,仕方のないこととも思う」などと反省しきり。しかし,その見城氏も….。

※昭和59年には「ロシア革命史」,「実践論・矛盾論」などが「名著コレクション」として,平成元年には「舞姫タイス」,「マリオと魔術師」などが「リバイバル・コレクション」と名付けられ,復刊された。

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