ヘンリー・ジェイムズ「アスパンの恋文」

ヘンリー・ジェイムズとヘンリー・ミラーは別段関係ないのだが,なんとなく似たもの同士と思ってしまうのはジェイムズに「デイジー・
ミラー」という小説があるせいかもしれない。

それはともかく,200編に及ぶというジェイムズの作品の中で,「デイジー・ミラー」と「ねじの回転」,「ある婦人の肖像」
程度しかわが国では知られていないというのは,彼の作品の多くが,新興アメリカ人と旧来のヨーロッパ文化との対立を描くという,
極めて真面目なテーマを取り上げているせいであろうか。

このたび岩波文庫に収録された「アスパンの恋文」(1888年刊)は,
そんなジェイムズの作品中で話の面白さでは第一という評価を得ており,クラシックなスリル&
サスペンスものといえる。

物語は,今は亡きアメリカの大詩人アスパンを崇拝し,
その生涯を調べているが,イタリアのベネチアを訪れるところから始まる。そこに,
かつてのアスパンの恋人,その詩に詠われ,知られざるアスパンの若き日を知る女性が,まだ生きていることを知ったからだ。

その人,いまは自由に動き回ることもままならない高齢のミス・ボルドローは,
中年の姪ミス・ティータとたった二人で,この地の大きな邸宅で隠遁生活を送っていた。
そしてそこにはアスパンの秘密を解き明かす鍵となるたくさんの手紙が残されているはずなのだ。

しかしボルドローは,アスパンに関して頑なに沈黙を守りつづけており,以前仲間の研究者が出した問い合わせの手紙に対しても,
怒りの返事が返ってきた。正攻法ではとても手紙を手に入れられそうにない。

そこで私は,アスパン研究者としての身分を隠し,ベネチアにあこがれる旅人,風変わりな間借り人として,
今では決して裕福ではないボルドローの屋敷に法外な部屋代を払って潜り込むことに成功する。手紙のありかは何処?と気は焦るが,
世間と没交渉の二人とは,同じ屋敷にいながら,話をすることもままならない。

私は一計を案じ,世間知らずの独身の姪を口説き,その口から手紙がまだボルドローの部屋に隠されていることを確かめる。
姪の手引きで暗い部屋に入り込み手紙を探すが,殺気を感じて振り向くと,
そこには寝たきりで何もわからないと思っていたボルドローが怒りに燃える目で私を見つめていた….。

屋敷を出る羽目になった私は,しばらくイタリア各地を放浪した後,ボルドローが亡くなったといううわさを聞く。
果たして手紙は彼女の手により焼かれてしまったのか,屋敷にまだ残っているのか….その行方を確かめるため,
ふたたび屋敷を訪れるのだが,そこで私を待っていたのは….。

ヘンリー・ジェイムズは,1843年ニューヨークに生まれた。78年,「デイジー・ミラー」
でアメリカとヨーロッパの生活習慣の違いによる若い女性の悲劇を描き,一躍有名となる。「アスパンの恋文」は1888年の作。
ストーリーはすべて登場人物である「私」が,見たこと感じたことを一人語りする形になっている。それで読者は,
あたかもその物語をともに体験しているかのような感じをうけるのだが,
この今ではよく行われる小説作法を最初に用いたのはジェームズであった。