岩波書店略史

岩波書店は,1913年(大正2年),岩波茂雄によって創業された。この岩波文庫の生みの親,岩波茂雄のプロフィールと岩波書店の歩みをまとめてみた。

岩波茂雄は1881年(明治14年),長野県諏訪郡中州村の農家に生まれた。早くに父を亡くした茂雄は,98年,東京遊学の念に燃えて,杉浦重剛日本中学校校長に手紙を書き,翌年上京。日本中学5年に入学。

1901年には,旧制第一高等学校に入学し,同級の阿部次郎らとともに読書や聖書に親しむようになる。03年に一高生藤村操の投身自殺にショックを受け,夏の間,野尻湖の孤島にこもるなどして,学校は落第。安部能成らと同級になる。

05年,東京帝国大学哲学科選科入学。神田北神保町に下宿する一方,日曜日ごとに小山内薫や志賀直哉らとともに,内村鑑三の聖書講義へ出席。07年には結婚し,本郷弥生町に移り住む。このころ,「内外教育評論」の編集を手伝う。08年,帝大を卒業し,神田高等女学校の教師となり,教頭として修身などを教える。

13年,書店開業のため,女学校を退職。神田区南神保町に移転。同年8月5日,古本販売と新刊図書,雑誌を扱う岩波書店を開業。書店では値引き販売が普通だった当時,正札販売をモットーとし,店員4名での旗揚げだった。

14年9月,夏目漱石の「こころ」を刊行。岩波書店ではこれを処女出版としている。19年からは新刊専門販売店となり,20年には小石川の中勘助宅を購入し,自宅とする。23年の関東大震災では,店舗,印刷工場などすべて焼失するが,バラック建てで復興。24年には年間80点を刊行,店員も37名を数える。25年,最初の「図書目録」を発行。収録点数330点。

27年,岩波文庫創刊。7月10日に23点を発行。同月芥川龍之介自殺。遺書により全集の出版を託される。28年には岩波文庫182点を刊行したが,売れ行き不調にて在庫が50万冊に膨らむ。

30年,岩波文庫に売上カード方式を導入。31年,雑誌「科学」を創刊。同年,「岩波文庫目録」を作成。32年,岩波文庫教科書版30点を発行。33年,岩波文庫「イミターショ・クリスチ」絶版。春秋社が同書を無断で出版したため告訴。この頃,茂雄はFIAT814を愛車としていた。岩波全書を創刊。ミレーの種まく人をトレードマークにする。

36年,奥付記載の著訳者名にふりがなを付け始める。この年,新刊点数262点,店員103名。38年,岩波文庫社会科学関係書の発禁処分。PR誌「岩波月報」を「図書」と改題。39年,奥付に落丁本・乱丁本は取り替える旨表示。39年,従来の委託制を改め,買切り制を実施。40年,津田左右吉の著書をめぐって,著者と岩波茂雄が出版法違反で起訴される。資材不足のため岩波文庫の栞を廃止。41年,岩波文庫・新書も買切り制を実施。岩波文庫の活字が当局の要請により9ポイントとなる。この年,店員178名。

42年,太平洋戦争突入後,出版事情が急速に悪化し,岩波書店の在庫も底をつく。文庫は1200点中50点,新書は80点中30点を残し品切れ。全書は全点品切れ。当局より不要不急の翻訳ものの出版差し止め処置。翻訳文学の刊行取りやめ。44年,用紙割り当ての減少により,多くの雑誌を休刊。45年,岩波茂雄,多額納税者議員として貴族院議員に当選。5月,空襲のため自宅を焼失。店員の多くが疎開し,残ったのは13名。8月終戦。9月,貴族院に初登院したが,質問の機会もなく閉院。46年4月25日,岩波茂雄没。行年62歳。